仏教、本、酒とか

仏教について独自の視点から記すほか、趣味について書きます

般若心経の真言部分(ぎゃていぎゃてい…)について

般若心経

お坊さんが、あるいは在家の信者さんがよく唱えるお経に

般若心経(『仏説摩訶般若波羅蜜多心経』)

があります。

しかし、このお経の意味があまり理解されていないのではないかということで、投稿します。

 

漢文の部分については、調べればいくらでもでてくる(そもそも、ひとつひとつの言葉の意味を辞書でひけば難しくない)上に、概説書もたくさんあります。

ですが、サンスクリットの音写部分、つまり

 

羯諦 羯諦 波羅羯諦 波羅僧羯諦 菩提薩婆訶(ぎゃていぎゃていはらぎゃていはらそうぎゃていぼうじそわか)

 

の部分が丁寧に説明されているのは見かけません。

サンスクリットが難しいからでしょうか。

 

 

漢字になっている部分を元に戻すと(ここまではあるかな?)

 

gate gate pāragate pārasaṃgate bodhi svāhā(ガテー ガテー パーラガテー パーラサンガテー ボーディ スヴァーハー)

 

となります。

 

まず、「gate」は√gam(行く、来る)という動詞の処格(~において)です。√gamではなく、√gatiである、というように解釈して呼格(〜よ)に訳し「彼岸よ」、あるいは「行けるものよ」などするのは、あとでも記しますが少し違和感が残ります。

よって、

羯諦 羯諦は「行ったところにおいて、来たところにおいて」と言う意味です。

 

次に、「pāra」は、「反対側、対岸、目的地」という意味です。

 

よって

波羅羯諦は、「目的地に行ったところにおいて」と訳すことができます。

 

その次、「saṃ」は総体、結合を意味しますので、

波羅僧羯諦は「目的地が行ったところと合一したところにおいて」と訳せます。

 

「bodhi」はめざめを意味します。

これを得ることでブッダとなるわけです。

 

 

 

svāhā」は感嘆詞のようなもので、「幸あれ!、祝福あれ!」といったところです。

 

呪の部分を通して訳すと、

「行ったところにおいて 来たところにおいて 目的地と来たところが合一したところにおいて これがさとりである。 幸あれ!」

くらいのものです。

 

いろんなことを言う人がいますが、本来的に仏教は哲学、思想であり、スピリチュアルなものとは少し違います。「意味が無い」なんていう人もいますが、わかっていないだけです。

 

神秘性などというものは釈尊時代にはなかったはずです。所謂「ありがたい」なんてのはいったいなんなのでしょうか?

また、変化の格を合わせるため「往ける者よ 往ける者よ」、「行った 行った」と呼格(呼びかけ)とするものもよくみられます。

 

しかし、これは現実に当てはめるとすぐにわかります。

出かけるときに、「行っている人よ 行っている人よ」、「行った 行った」、「目的地よ 目的地よ」等と言うでしょうか?

 

東京から高野山に行く、という状況に当てはめると、

高野山について初めて、「ああ、ついた。私がいまいるここが高野山か。目的地に来たぞ。やった」となるのではないでしょうか。

電車に乗りながら、「高野山に行っている私よ」なんて言うでしょうか?

 

 

仏教は生きるため、幸せになるための思想です。全てに意味があります。盲目的にただ唱えたり、写経したいするだけでは、なんの意味もありません。

いわゆるブッダ、ゴータマ、シッダールタ、お釈迦さまの呼び名について

高野山の柊弥です。

いわゆるブッダ仏陀)の呼称についてということで、散々言われていることですが書きます。

まず、ブッダについて。これはサンスクリットで、「目覚めた人、気づいた人、知った人」とかを意味します。

そして、「本名はゴータマ・シッダールタ!」などと言う人もいますが、これは誤りです。ゴータマ(gotama)はサンスクリットで「最も優れた牛」を意味します。そしてシッダールタ(Śhiddhārtha)は「成就した人、目的を達成した人」を意味します。

お釈迦様、というのも、これは曖昧な言葉と言わざるを得ません。というのも、釈迦というのは種族の名称であるからです。

そこでできれば、釈迦族出身の尊い方と特定した一人を指す、「釈尊」と呼ぶのをぜひとも一般化したいのですがなかなか広がりませんね……。